まこっちゃんのそれなり日記

才能なしキャリアなしの30代男が気になったことについて書く雑記ブログ

信長に仕えた黒人侍

侍といえば、日本において古くから兵士として活躍してきた存在として知られ、そんな彼らの物語は、小説や映像作品として今日も人気を博しています。

 

また、日本文化の象徴でもある侍の存在は、国内のみならず、海外においても高い知名度がありますね。

 

そんな日本の戦闘集団・侍ですが、実は、あの織田信長に仕えた侍の中に、黒人がいたということをご存知でしょうか?

 

事実、最も信憑性が高いとされている信長についての記録資料『信長公記』をはじめ、数々の文献に、黒人の侍がいたことが記されています。

 

そんな謎に包まれた黒人侍について見ていきましょう。

 

 

 

黒人の侍・弥助

日本を統一せんと勢力を拡大していた信長は、海外に対しても強い興味を示しており、珍しい舶来物の献上品を持ってきたり、海外の話を聞かせてくれる宣教師などとも頻繁に謁見していました。

 

そんな宣教師の一人、イタリア人のアレッサンドロ・ヴェリニャーノが信長に謁見した際に連れていたのが、奴隷としてアフリカから連れてきた一人の黒人でした。

 

現在のモザンビーク出身とされるその黒人は182cmと大柄、十人力の剛力だったとされ、信長は彼をたいそう気に入り、自らの家臣として「弥助」という名前まで与えました。

 

なお、当初は信長も、弥助は「体に墨を塗っているのだろう」として、体を洗わせてみたりしたようです。

 

 

弥助と信長

宣教師にとって、弥助は単なる奴隷でしかありませんでした。

 

日本にきてからも、黒人である彼見たさに多くの見物人が集まるなど、好奇の目を向けられていたことから、多くの日本人たちも彼を奴隷としてしか見ていなかったことでしょう。

 

ところが、弥助を気に入った信長は、彼を側近のようなポジションにつけ、当時日本人の中でも高い位であった武士としての身分を与えました。

 

農民出身の秀吉が織田家中でのし上がっていったように、家臣たちに下剋上を奨励してきた信長にとっては、その人物がいかに高い能力を持っているかが重要で、身分はおろか、人種の違いなどはさしたる問題ではなかったのでしょう。

 

もしも本能寺の変で信長が死んでいなければ、弥助は一国一城の主となっていたのではないだろうか?

 

そう言われるほど、信長は弥助を重用していたようです。

 

そんな信長に対して、弥助も忠義で報いたとされています。

 

本能寺の変では、信長の後継者である信忠を守り奮戦し、明智軍に捕らえられました。

 

 

弥助と光秀

本能寺で明智軍に捕らえられた弥助。

 

当然、他の織田方の人間同様、弥助も殺されてしまうかと思われましたが、光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」とし、イエズス会の教会に送り返されることとなりました。

 

パッと見、この光秀の言葉は人種差別以外の何物でもありませんが、お互いに信長に近しい立場だったことから、光秀は弥助がどのような人物であるか、ある程度把握していたことでしょう。

 

そして、この弥助という人物は腕っぷしが強いだけでなく、頭も良く、日本語もある程度話せていたとも言われています。

 

このような弥助を見てきた光秀が、本気で上記のような発言をしたとは考えにくく、このことに関しては、光秀が弥助の命を助けるよう配慮したのではないかとされています。

 

 

その後の弥助

その後、弥助がどうなったかは、はっきりとした記録がないため不明です。

 

宣教師の奴隷に戻り、どこかの国で生涯を終えた可能性もありますし、どうにかして祖国に帰ることができたのかもしれません。

 

また、その後の日本国内の史料に、黒人と思しき人物が戦に参加していたり、相撲をとっていたというような記録があるため、そのまま日本に残っていた可能性もありえるでしょう。

 

 

まとめ

織田信長と言えば、比叡山焼き討ちや伊勢長島一向一揆鎮圧など、その苛烈な戦っぷりから冷酷非道な人物として語られることも少なくない人物です。

 

しかしその反面で、当時、多くの人が差別的な目を向けていた弥助を厚遇したのも信長の一つの姿なのです。

 

同じ日本人同士、肉親同士が争い合う戦国の世において、信長と弥助の間には人種や文化を超えた、確かな信頼関係が存在していたのかもしれません。